夜明け前に山月記を読み返す 🌘⛰🐅






1 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:08:38.42 ID:apZ4rajx0.net
🐯・・・

2 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:08:46.39 ID:apZ4rajx0

山月記 中島敦

3 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:09:59.22 ID:apZ4rajx0

 隴西の李徴は博學才穎、天寶の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃む所頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかつた。
いくばくもなく官を退いた後は、故山、虢略に歸臥し、人と交を絶つて、ひたすら詩作に耽つた。下吏となつて長く膝を俗惡な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺さうとしたのである。

しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐うて苦しくなる。李徴は漸く焦躁に驅られて來た。この頃から其の容貌も峭刻となり、肉落ち骨秀で、眼光のみ徒らに烱々として、曾て進士に登第した頃の豐頬の美少年の俤は、何處に求めやうもない。

4 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:10:33.49 ID:apZ4rajx0

數年の後、貧窮に堪へず、妻子の衣食のために遂に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになつた。

一方、之は、己の詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遙か高位に進み、彼が昔、鈍物として齒牙にもかけなかつた其の連中の下命を拜さねばならぬことが、往年の儁才李徴の自尊心を如何に傷つけたかは、想像に難くない。

彼は怏々として樂しまず、狂悖の性は愈々抑へ難くなつた。

5 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:11:00.66 ID:apZ4rajx0

一年の後、公用で旅に出、汝水のほとりに宿つた時、遂に發狂した。

或夜半、急に顏色を變へて寢床から起上ると、何か譯の分らぬことを叫びつつ其の儘下にとび下りて、闇の中へ駈出した。
彼は二度と戻つて來なかつた。附近の山野を搜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなつたかを知る者は、誰もなかつた。

6 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:11:46.76 ID:apZ4rajx0

翌年、監察御史、陳郡の袁傪[ゑんさん]といふ者、勅命を奉じて嶺南に使し、途に商於の地に宿つた。

次の朝未だ暗い中に出發しようとした所、驛吏が言ふことに、これから先の道に人喰虎が出る故、旅人は白晝でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜しいでせうと。
袁傪は、しかし、供廻りの多勢なのを恃み、驛吏の言葉を斥けて、出發した。

7 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:12:29.55 ID:apZ4rajx0

殘月の光をたよりに林中の草地を通つて行つた時、果して一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。

虎は、あはや袁傪に躍りかかるかと見えたが、忽ち身を飜して、元の叢に隱れた。叢の中から人間の聲で「あぶない所だつた」と繰返し呟くのが聞えた。其の聲に袁傪は聞き憶えがあつた。

驚懼の中にも、彼は咄嗟に思ひあたつて、叫んだ。「其の聲は、我が友、李徴子ではないか?」

袁傪は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かつた李徴にとつては、最も親しい友であつた。温和な袁傪の性格が、峻峭な李徴の性情と衝突しなかつたためであらう。

 叢の中からは、暫く返辭が無かつた。しのび泣きかと思はれる微かな聲が時々洩れるばかりである。ややあつて、低い聲が答へた。「如何にも自分は隴西の李徴である」と。

8 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:13:31.20 ID:apZ4rajx0

 袁傪は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、懷かしげに久濶を叙した。そして、何故叢から出て來ないのかと問うた。

李徴の聲が答へて言ふ。
自分は今や異類の身となつてゐる。どうして、おめゝゝと故人の前にあさましい姿をさらせようか。且つ又、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖嫌厭の情を起させるに決つてゐるからだ。

しかし、今、圖らずも故人に遇ふことを得て、愧赧[きたん]の念をも忘れる程に懷かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜惡な今の外形を厭はず、曾て君の友李徴であつた此の自分と話を交して呉れないだらうか。

 後で考へれば不思議だつたが、其の時、袁傪は、この超自然の怪異を、實に素直に受容れて、少しも怪まうとしなかつた。彼は部下に命じて行列の進行を停め、自分は叢の傍に立つて、見えざる聲と對談した。

9 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:13:36.51 ID:apZ4rajx0

都の噂、舊友の消息、袁傪が現在の地位、それに對する李徴の祝辭。青年時代に親しかつた者同志の、あの隔てのない語調で、それ等が語られた後、袁傪は、李徴がどうして今の身となるに至つたかを訊ねた。草中の聲は次のやうに語つた。

10 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:14:15.94 ID:apZ4rajx0

 今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊つた夜のこと、一睡してから、ふと眼を覺ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでゐる。聲に應じて外へ出て見ると、聲は闇の中から頻りに自分を招く。

覺えず、自分は聲を追うて走り出した。

無我夢中で駈けて行く中に、何時しか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫んで走つてゐた。何か身體中に力が充ち滿ちたやうな感じで、輕々と岩石を跳び越えて行つた。

氣が付くと、手先や肱のあたりに毛を生じてゐるらしい。少し明るくなつてから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となつてゐた。

11 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:14:41.21 ID:0nnf8eQj0

たまには名人伝も貼れ

12 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:14:48.29 ID:apZ4rajx0

自分は初め眼を信じなかつた。次に、之は夢に違ひないと考へた。夢の中で、之は夢だぞと知つてゐるやうな夢を、自分はそれ迄に見たことがあつたから。
どうしても夢でないと悟らねばならなかつた時、自分は茫然とした。さうして、懼れた。全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。

しかし、何故こんな事になつたのだらう。分らぬ。全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取つて、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ。

自分は直ぐに死を想うた。しかし、其の時、眼の前を一匹の兎が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間は忽ち姿を消した。

再び自分の中の人間が目を覺ました時、自分の口は兎の血に塗れ、あたりには兎の毛が散らばつてゐた。之が虎としての最初の經驗であつた。

13 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:15:57.02 ID:apZ4rajx0

それ以來今迄にどんな所行をし續けて來たか、それは到底語るに忍びない。

ただ、一日の中に必ず數時間は、人間の心が還つて來る。さういふ時には、曾ての日と同じく、人語も操れれば、複雜な思考にも堪へ得るし、經書の章句をも誦ずることも出來る。

その人間の心で、虎としての己の殘虐な行のあとを見、己の運命をふりかへる時が、最も情なく、恐しく、憤ろしい。

14 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:16:17.65 ID:2K76nYMM0

臆病な自尊心と尊大な羞恥心やっけか

15 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:16:24.62 ID:apZ4rajx0

しかし、その、人間にかへる數時間も、日を經るに從つて次第に短くなつて行く。
今迄は、どうして虎などになつたかと怪しんでゐたのに、此の間ひよいと氣が付いて見たら、己れはどうして以前、人間だつたのかと考へてゐた。之は恐しいことだ。

今少し經てば、己れの中の人間の心は、獸としての習慣の中にすつかり埋れて消えて了ふだらう。恰度、古い宮殿の礎が次第に土砂に埋沒するやうに。
さうすれば、しまひに己れは自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂ひ廻り、今日の樣に途で君と出會つても故人と認めることなく、君を裂き喰うて何の悔も感じないだらう。

16 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:17:14.51 ID:apZ4rajx0

一體、獸でも人間でも、もとは何か他のものだつたんだらう。初めはそれを憶えてゐたが、次第に忘れて了ひ、初めから今の形のものだつたと思ひ込んでゐるのではないか? いや、そんな事はどうでもいい。

己れの中の人間の心がすつかり消えて了へば、恐らく、その方が、己れはしあはせになれるだらう。だのに、己れの中の人間は、その事を、此の上なく恐しく感じてゐるのだ。
ああ、全く、どんなに、恐しく、哀しく、切なく思つてゐるだらう! 己れが人間だつた記憶のなくなることを。この氣持は誰にも分らない。誰にも分らない。己れと同じ身の上に成つた者でなければ。

所で、さうだ。己れがすつかり人間でなくなつて了ふ前に、一つ頼んで置き度いことがある。

17 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:18:19.37 ID:apZ4rajx0

>>11
なんでいつも名人伝推しとるんや

>>14
せや
せやけどそれは一側面でしかないんや

18 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:18:36.34 ID:Q6W083q6a

李陵も貼って

19 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:18:55.30 ID:apZ4rajx0

 袁傪はじめ一行は、息をのんで、叢中の聲の語る不思議に聞入つてゐた。聲は續けて言ふ。

 他でもない。自分は元來詩人として名を成す積りでゐた。しかも、業未だ成らざるに、この運命に立至つた。曾て作る所の詩數百篇、固より、まだ世に行はれてをらぬ。遺稿の所在も最早判らなくなつてゐよう。

所で、その中、今も尚記誦せるものが數十ある。之を我が爲に傳録して戴き度いのだ。

何も、之に仍つて一人前の詩人面をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂はせて迄自分が生涯それに執著した所のものを、一部なりとも後代に傳へないでは、死んでも死に切れないのだ。

20 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:19:00.55 ID:uvVEfATc0

現代語訳版にしてくれ

21 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:19:01.32 ID:mFKkVn6T0

謎定期

22 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:19:22.33 ID:apZ4rajx0

 袁傪は部下に命じ、筆を執つて叢中の聲に隨つて書きとらせた。李徴の聲は叢の中から朗々と響いた。長短凡そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一讀して作者の才の非凡を思はせるものばかりである。

しかし、袁傪は感嘆しながらも漠然と次の樣に感じてゐた。成程、作者の素質が第一流に屬するものであることは疑ひない。しかし、この儘では、第一流の作品となるのには、何處か(非常に微妙な點に於て)缺ける所があるのではないか、と。

24 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:20:08.49 ID:apZ4rajx0

さうだ。お笑ひ草ついでに、今の懷を即席の詩に述べて見ようか。この虎の中に、まだ、曾ての李徴が生きてゐるしるしに。

 袁傪は又下吏に命じて之を書きとらせた。その詩に言ふ。

偶因狂疾成殊類  災患相仍不可逃
今日爪牙誰敢敵  當時聲跡共相高
我爲異物蓬茅下  君已乘軺氣勢豪
此夕溪山對明月  不成長嘯但成嘷

25 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:20:44.94 ID:apZ4rajx0

>>18
山月記の10倍以上あるで

>>20
山月記は現代語定期

26 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:21:25.27 ID:apZ4rajx0

 時に、殘月、光冷やかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風は既に曉の近きを告げてゐた。人々は最早、事の奇異を忘れ、肅然として、この詩人の薄倖を嘆じた。李徴の聲は再び續ける。

 何故こんな運命になつたか判らぬと、先刻は言つたが、しかし、考へやうに依れば、思ひ當ることが全然ないでもない。

27 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:22:09.16 ID:apZ4rajx0

人間であつた時、己れは努めて人との交を避けた。人々は己れを倨傲だ、尊大だといつた。實は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかつた。

勿論、曾ての郷黨の秀才だつた自分に、自尊心が無かつたとは云はない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいふべきものであつた。

己れは詩によつて名を成さうと思ひながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交つて切磋琢磨に努めたりすることをしなかつた。
かといつて、又、己れは俗物の間に伍することも潔しとしなかつた。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所爲である。

己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨かうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出來なかつた。

28 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:23:16.51 ID:apZ4rajx0

己れは次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによつて益々己の内なる臆病な自尊心を飼ひふとらせる結果になつた。

人間は誰でも猛獸使であり、その猛獸に當るのが、各人の性情だといふ。己れの場合、この尊大な羞恥心が猛獸だつた。虎だつたのだ。
之が己を損ひ、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形を斯くの如く、内心にふさはしいものに變へて了つたのだ。

今思へば、全く、己れは、己れの有つてゐた僅かばかりの才能を空費して了つた譯だ。

人生は何事をも爲さぬには餘りに長いが、何事かを爲すには餘りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事實は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭ふ怠惰とが己れの凡てだつたのだ。

己れよりも遙かに乏しい才能でありながら、それを專一に磨いたがために、堂々たる詩家となつた者が幾らでもゐるのだ。虎と成り果てた今、己れは漸くそれに氣が付いた。それを思ふと、己れは今も胸を灼かれるやうな悔を感じる。

30 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:24:12.21 ID:apZ4rajx0

己れには最早人間としての生活は出來ない。たとへ、今、己れが頭の中で、どんな優れた詩を作つたにした所で、どういふ手段で發表できよう。

まして、己れの頭は日毎に虎に近づいて行く。

どうすればいいのだ。己れの空費された過去は? 己れは堪らなくなる。

さういふ時、己れは、向うの山の頂の巖に上り、空谷に向つて吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴へたいのだ。

31 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:25:07.82 ID:apZ4rajx0

己れは昨夕も、彼處で月に向つて咆えた。誰かに此の苦しみが分つて貰へないかと。

しかし、獸どもは己れの聲を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂つて、哮つてゐるとしか考へない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己れの氣持を分つて呉れる者はない。
恰度、人間だつた頃、己れの傷つき易い内心を誰も理解して呉れなかつたやうに。己れの毛皮の濡れたのは、夜露のためばかりではない。

32 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:25:49.43 ID:apZ4rajx0

 漸く四邊[あたり]の暗さが薄らいで來た。木の間を傳つて、何處からか、曉角が哀しげに響き始めた。

 最早、別れを告げねばならぬ。醉はねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の聲が言つた。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。

彼等は未だ虢略にゐる。固より、己れの運命に就いては知る筈がない。君が南から歸つたら、己れは既に死んだと彼等に告げて貰へないだらうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。
厚かましいお願だが、彼等の孤弱を憐れんで、今後とも道塗に飢凍することのないやうにはからつて戴けるならば、自分にとつて、恩倖、之に過ぎたるは莫い。

33 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:26:15.49 ID:apZ4rajx0

 言終つて、叢中から慟哭の聲が聞えた。袁傪も亦涙を泛べ、欣んで李徴の意に副ひ度い旨を答へた。李徴の聲は併し忽ち又先刻の自嘲的な調子に戻つて、言つた。

 本當は、先づ、この事の方を先にお願ひすべきだつたのだ、己れが人間だつたなら。飢ゑ凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を氣にかけてゐる樣な男だから、こんな獸に身を墮すのだ。

 さうして、附加へて言ふことに、袁傪が嶺南からの歸途には決して此の途を通らないで欲しい、其の時には自分が醉つてゐて故人を認めずに襲ひかかるかも知れないから。

又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上つたら、此方を振りかへつて見て貰ひ度い。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。
勇に誇らうとしてではない。我が醜惡な姿を示して、以て、再び此處を過ぎて自分に會はうとの氣持を君に起させない爲であると。

34 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:26:26.78 ID:0nnf8eQj0

>>17
そら好きだからや

35 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:26:37.25 ID:apZ4rajx0

 袁傪は叢に向つて、懇ろに別れの言葉を述べ、馬に上つた。叢の中からは、又、堪へ得ざるが如き悲泣の聲が洩れた。袁傪も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出發した。

36 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:26:51.63 ID:apZ4rajx0

 一行が丘の上についた時、彼等は、言はれた通りに振返つて、先程の林間の草地を眺めた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。

虎は、既に白く光を失つた月を仰いで、二聲三聲咆哮したかと思ふと、又、元の叢に躍り入つて、再び其の姿を見なかつた。

38 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:28:57.85 ID:apZ4rajx0

(昭和17年2月發表)

作・中島 敦(明治42年5月 – 昭和17年12月)

40 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:31:56.47 ID:apZ4rajx0

弟子 中島敦

41 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:32:07.05 ID:apZ4rajx0

43 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:32:45.77 ID:Mm3X6234a

スラスラっと読んでしまった
読みやすいからかな

44 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:33:16.75 ID:apZ4rajx0

 魯の卞の游侠の徒、仲由、字は子路という者が、近頃賢者の噂も高い学匠・陬人孔丘を辱しめてくれようものと思い立った。

似而非賢者何程のことやあらんと、蓬頭突鬢・垂冠・短後の衣という服装[いでたち]で、左手に雄鷄、右手に牡豚を引提げ、勢猛に、孔丘が家を指して出掛ける。
鷄を揺り豚を奮い、嗷[かまびす]しい脣吻の音をもって、儒家の絃歌講誦の声を擾そうというのである。

 けたたましい動物の叫びと共に眼を瞋[いか]らして跳び込んで来た青年と、圜冠句履緩く玦を帯びて几に凭[よ]った温顔の孔子との間に、問答が始まる。

「汝、何をか好む?」と孔子が聞く。
「我、長剣を好む。」と青年は昂然として言い放つ。

45 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:34:05.21 ID:apZ4rajx0

 孔子は思わずニコリとした。青年の声や態度の中に、余りに稚気満々たる誇負を見たからである。

血色のいい・眉の太い・眼のはっきりした・見るからに精悍そうな青年の顔には、しかし、どこか、愛すべき素直さがおのずと現れているように思われる。再び孔子が聞く。

「学はすなわちいかん?」
「学、豈、益あらんや。」もともとこれを言うのが目的なのだから、子路は勢込んで怒鳴るように答える。

47 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:35:27.65 ID:Q6W083q6a

中島敦全集は未だに読むわ

48 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:36:13.40 ID:apZ4rajx0

「しかし」と、それでも子路はなお逆襲する気力を失わない。

南山の竹は揉[た]めずして自ら直く、斬ってこれを用うれば犀革の厚きをも通すと聞いている。して見れば、天性優れたる者にとって、何の学ぶ必要があろうか?

 孔子にとって、こんな幼稚な譬喩を打破るほどたやすい事はない。汝の云うその南山の竹に矢の羽をつけ鏃を付けてこれを礪[みが]いたならば、ただに犀革を通すのみではあるまいに、と孔子に言われた時、愛すべき単純な若者は返す言葉に窮した。

顔を赧らめ、しばらく孔子の前に突立ったまま何か考えている様子だったが、急に鷄と豚とを抛[ほう]り出し、頭を低れて、「謹しんで教を受けん。」と降参した。

単に言葉に窮したためではない。実は、室に入って孔子の容を見、その最初の一言を聞いた時、直ちに鷄豚の場違いであることを感じ、己と余りにも懸絶した相手の大きさに圧倒されていたのである。

49 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:36:27.74 ID:apZ4rajx0

 即日、子路は師弟の礼を執って孔子の門に入った。

51 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:37:25.71 ID:apZ4rajx0

 このような人間を、子路は見たことがない。

力千鈞の鼎を挙げる勇者を彼は見たことがある。明千里の外を察する智者の話も聞いたことがある。しかし、孔子に在るものは、決してそんな怪物めいた異常さではない。ただ最も常識的な完成に過ぎないのである。

知情意のおのおのから肉体的の諸能力に至るまで、実に平凡に、しかし実に伸び伸びと発達した見事さである。一つ一つの能力の優秀さが全然目立たないほど、過不及無く均衡のとれた豊かさは、子路にとって正しく初めて見る所のものであった。

52 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:38:22.84 ID:apZ4rajx0

闊達自在、いささかの道学者臭も無いのに子路は驚く。この人は苦労人だなとすぐに子路は感じた。

可笑しいことに、子路の誇る武芸や膂力においてさえ孔子の方が上なのである。ただそれを平生用いないだけのことだ。侠者子路はまずこの点で度胆を抜かれた。

放蕩無頼の生活にも経験があるのではないかと思われる位、あらゆる人間への鋭い心理的洞察がある。そういう一面から、また一方、極めて高く汚れないその理想主義に至るまでの幅の広さを考えると、子路はウーンと心の底から呻[うな]らずにはいられない。

53 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:38:43.97 ID:apZ4rajx0

とにかく、この人はどこへ持って行っても大丈夫な人だ。潔癖な倫理的な見方からしても大丈夫だし、最も世俗的な意味から云っても大丈夫だ。

子路が今までに会った人間の偉さは、どれも皆その利用価値の中に在った。これこれの役に立つから偉いというに過ぎない。

孔子の場合は全然違う。ただそこに孔子という人間が存在するというだけで充分なのだ。少くとも子路には、そう思えた。彼はすっかり心酔してしまった。門に入っていまだ一月ならずして、もはや、この精神的支柱から離れ得ない自分を感じていた。

57 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:42:32.15 ID:apZ4rajx0

 上智と下愚は移り難いと言った時、孔子は子路のことを考えに入れていなかった。欠点だらけではあっても、子路を下愚とは孔子も考えない。

孔子はこの剽悍な弟子の無類の美点を誰よりも高く買っている。それはこの男の純粋な没利害性のことだ。

この種の美しさは、この国の人々の間に在っては余りにも稀なので、子路のこの傾向は、孔子以外の誰からも徳としては認められない。むしろ一種の不可解な愚かさとして映るに過ぎないのである。
しかし、子路の勇も政治的才幹も、この珍しい愚かさに比べれば、ものの数でないことを、孔子だけは良く知っていた。

56 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:41:52.17 ID:apZ4rajx0

が、それ以上に、これを習うことが子路にとっての難事業であった。子路が頼るのは孔子という人間の厚みだけである。その厚みが、日常の区々たる細行の集積であるとは、子路には考えられない。

本があって始めて末が生ずるのだと彼は言う。しかしその本をいかにして養うかについての実際的な考慮が足りないとて、いつも孔子に叱られるのである。
彼が孔子に心服するのは一つのこと。彼が孔子の感化を直ちに受けつけたかどうかは、また別の事に属する。

55 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:41:16.65 ID:apZ4rajx0

 孔子は孔子で、この弟子の際立った馴らし難さに驚いている。
単に勇を好むとか柔を嫌うとかいうならば幾らでも類はあるが、この弟子ほどものの形を軽蔑する男も珍しい。

究極は精神に帰すると云いじょう、礼なるものはすべて形から入らねばならぬのに、子路という男は、その形からはいって行くという筋道を容易に受けつけないのである。

「礼と云い礼と云う。玉帛を云わんや。楽と云い楽と云う。鐘鼓を云わんや。」などというと大いに欣[よろこ]んで聞いているが、曲礼の細則を説く段になるとにわかに詰まらなさそうな顔をする。

形式主義への・この本能的忌避と闘ってこの男に礼楽を教えるのは、孔子にとってもなかなかの難事であった。

58 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:43:45.01 ID:apZ4rajx0

 師の言に従って己を抑え、とにもかくにも形に就こうとしたのは、親に対する態度においてであった。

孔子の門に入って以来、乱暴者の子路が急に親孝行になったという親戚中の評判である。

褒められて子路は変な気がした。親孝行どころか、嘘ばかりついているような気がして仕方が無いからである。
我儘を云って親を手古摺らせていた頃の方が、どう考えても正直だったのだ。今の自分の偽りに喜ばされている親達が少々情無くも思われる。

こまかい心理分析家ではないけれども、極めて正直な人間だったので、こんな事にも気が付くのである。

ずっと後年になって、ある時突然、親の老いたことに気が付き、己の幼かった頃の両親の元気な姿を思出したら、急に泪が出て来た。その時以来、子路の親孝行は無類の献身的なものとなるのだが、とにかく、それまでの彼の俄[にわ]か孝行はこんな工合であった。

60 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:44:58.33 ID:FI65u9vDM

サンガツ紀

62 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:45:46.89 ID:apZ4rajx0

子路が相手にしないでいると、今度は聞捨のならぬことを言出した。

どうだい。あの孔丘という先生はなかなかの喰わせものだって云うじゃないか。しかつめらしい顔をして心にもない事を誠しやかに説いていると、えらく甘い汁が吸えるものと見えるなあ。

別に悪意がある訳ではなく、心安立てからのいつもの毒舌だったが、子路は顔色を変えた。

63 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:46:10.87 ID:apZ4rajx0

いきなりその男の胸倉を掴み、右手の拳をしたたか横面に飛ばした。二つ三つ続け様に喰わしてから手を離すと、相手は意気地なく倒れた。

呆気に取られている他の連中に向っても子路は挑戦的な眼を向けたが、子路の剛勇を知る彼等は向って来ようともしない。殴られた男を左右から扶け起し、捨台詞一つ残さずにこそこそと立去った。

64 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:46:37.11 ID:apZ4rajx0

 いつかこの事が孔子の耳に入ったものと見える。子路が呼ばれて師の前に出て行った時、直接には触れないながら、次のようなことを聞かされねばならなかった。

古の君子は忠をもって質となし仁をもって衛となした。不善ある時はすなわち忠をもってこれを化し、侵暴ある時はすなわち仁をもってこれを固うした。腕力の必要を見ぬゆえんである。

とかく小人は不遜をもって勇と見做し勝ちだが、君子の勇とは義を立つることの謂である云々。神妙に子路は聞いていた。

65 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:47:50.51 ID:apZ4rajx0

 数日後、子路がまた街を歩いていると、往来の木蔭で閑人達の盛んに弁じている声が耳に入った。それがどうやら孔子の噂のようである。

――昔、昔、と何でも古を担ぎ出して今を貶[おと]す。誰も昔を見たことがないのだから何とでも言える訳さ。しかし昔の道を杓子定規にそのまま履[ふ]んで、それで巧く世が治まるくらいなら、誰も苦労はしないよ。
俺達にとっては、死んだ周公よりも生ける陽虎様の方が偉いということになるのさ。

 下剋上の世であった。政治の実権が魯侯からその大夫たる季孫氏の手に移り、それが今や更に季孫氏の臣たる陽虎という野心家の手に移ろうとしている。しゃべっている当人はあるいは陽虎の身内の者かも知れない。

66 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:48:46.94 ID:apZ4rajx0

 ――ところで、その陽虎様がこの間から孔丘を用いようと何度も迎えを出されたのに、何と、孔丘の方からそれを避けているというじゃないか。口では大層な事を言っていても、実際の生きた政治にはまるで自信が無いのだろうよ。あの手合はね。

 子路は背後[うしろ]から人々を分けて、つかつかと弁者の前に進み出た。人々は彼が孔門の徒であることをすぐに認めた。
今まで得々と弁じ立てていた当の老人は、顔色を失い、意味も無く子路の前に頭を下げてから人垣の背後に身を隠した。眥[まなじり]を決した子路の形相が余りにすさまじかったのであろう。

67 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:49:48.25 ID:apZ4rajx0

 その後しばらく、同じような事が処々で起った。肩を怒らせ炯々と眼を光らせた子路の姿が遠くから見え出すと、人々は孔子を刺[そし]る口を噤むようになった。

 子路はこの事で度々師に叱られるが、自分でもどうしようもない。彼は彼なりに心の中では言分が無いでもない。

いわゆる君子なるものが俺と同じ強さの忿怒を感じてなおかつそれを抑え得るのだったら、そりゃ偉い。しかし、実際は、俺ほど強く怒りを感じやしないんだ。少くとも、抑え得る程度に弱くしか感じていないのだ。きっと…………。

 一年ほど経ってから孔子が苦笑と共に嘆じた。由が門に入ってから自分は悪言を耳にしなくなったと。

68 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:50:06.10 ID:apZ4rajx0

もうみんな寝たやろ

69 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:51:26.14 ID:apZ4rajx0

 ある時、子路が一室で瑟[しつ]を鼓していた。

 孔子はそれを別室で聞いていたが、しばらくして傍らなる冉有[ぜんゆう]に向って言った。あの瑟の音を聞くがよい。暴の気がおのずから漲っているではないか。君子の音は温柔にして中におり、生育の気を養うものでなければならぬ。

昔舜[しゅん]は五絃琴を弾じて南風の詩を作った。南風の薫ずるやもって我が民の慍[いかり]を解くべし。南風の時なるやもって我が民の財を阜[おおい]にすべしと。

今由の音を聞くに、誠に殺伐激越、南音に非ずして北声に類するものだ。弾者の荒怠暴恣の心状をこれほど明らかに映し出したものはない。――

70 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:53:02.25 ID:apZ4rajx0

>>69から四

 後、冉有が子路の所へ行って夫子の言葉を告げた。

 子路は元々自分に楽才の乏しいことを知っている。そして自らそれを耳と手のせいに帰していた。

しかし、それが実はもっと深い精神の持ち方から来ているのだと聞かされた時、彼は愕然として懼れた。大切なのは手の習練ではない。もっと深く考えねばならぬ。

彼は一室に閉じ籠り、静思して喰わず、もって骨立するに至った。

71 :風吹けば名無し:2019/09/25(水) 05:54:11.50 ID:apZ4rajx0

数日の後、ようやく思い得たと信じて、再び瑟を執った。そうして、極めて恐る恐る弾じた。

その音を洩れ聞いた孔子は、今度は別に何も言わなかった。咎めるような顔色も見えない。子貢[しこう]が子路の所へ行ってその旨を告げた。師の咎が無かったと聞いて子路は嬉しげに笑った。

 人の良い兄弟子の嬉しそうな笑顔を見て、若い子貢も微笑を禁じ得ない。聡明な子貢はちゃんと知っている。子路の奏でる音が依然として殺伐な北声に満ちていることを。
そうして、夫子がそれを咎めたまわぬのは、痩せ細るまで苦しんで考え込んだ子路の一本気を愍[あわれ]まれたために過ぎないことを。

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